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死への興味/からっぽなことば

今Yahoo!で「長崎・同級生殺害事件」を検索するとうちが一番上に表示されます。検索エンジンが独自のものに変わってからどうも検索精度が落ちているよう。

さて、その後さらに少し情報が入ったりしたので追記。

殺害後しばしその場にとどまり、動かなくなるのを確認していた可能性があるとの報道については、本当に恐ろしく思うばかり。たとえ愚かにもそういう行為に及んでも、流れる血を見てハッと我に返る・・・くらいが人間として普通なのではないだろうか。それともそんなことを思う私の方がドラマとかの見過ぎなのか。どうなんだろう。

この点に関連しては、某所で加害者の行動はそんなにおかしな挙動ではないのではないか、という意見に接しました。殺すことへの興味というか、死への興味というか。分からなくはない。

分からなくはないけれど、個人的にはやはり普通ではないと思う。小さい頃、カエルの足を引っ張ってみたり中身を覗いてみたりしたことがある。でも内臓なんかが登場するあたりでキモチ悪くなったりして、たいへんな後悔の念に襲われる。トンボの羽を引きちぎって遊んでみても、楽しいのはせいぜい小学校低学年くらいで、そのうち可哀想で見ていられなくなる。それが自然な感情なのではないかと。

もちろんそういう段階が欠如していると人間へ、ということになるのかもしれない。そのあたりは分かりかねるのだけれど、どうだろう。

そんなことを考えているうちに、興味深い記事を発見。
小中学生の39%、「誰かを殺したい」(ITmediaニュース)

それほどきちんとした調査ではないようだけれど、とにかくそういうことらしい。ただ、記事を読んでみると上の文脈とは違う話のよう。

もっとも、もう一点考えていたこととは非常に関連が。それは、上の記事でいえば「殺したい」という言葉の意味。上の調査でいえば39%の全員がができることならカッターナイフを用意してざっくりと、と思っているわけではないはず。中には本当にそう思っているかも知れないけれど、大部分にとって「殺したい」は言葉のあや。

そこでの「殺したい」は具体的行為を指しているわけではなくって、ある感情を表現しているのは確かなのだけれど、その内容はなかなかつかめない。

今回の事件の加害者についても、HP上で公開していた文章をテレビで取り上げ、「こんなことを書いている」とその文章「分析」している番組を見ました。ただ、ちらっと見た上での感想としては、あまり有意味ではなさそう。そこで用いられている言葉はみな「借り物」のようで、空虚で、結局からっぽ。本人も本当に自分が何を言っているのか分かっていなかったのではないかと思わせるふしがありました。

そこで思ったのは、危惧すべきことがあるとすれば、低年齢層の「心の闇」もそうかもしれないけれど、むしろ言葉と心の相互連関なのではないかということ。

文章を書いていると、自分が意図した通りになっていないことがよくあります。「本当に自分が書きたかったこと」と「自分が書いていること」には絶えずギャップがあって、気をつけないとそのギャップはとてつもなく大きくなっていたりする。逆に、そもそも自分が書きたかったことが何なのかよく分からなくなって、結局書いていることが自分の書きたかったことだったのではないかと思ってしまったり。

文字にしなくてもそういうことはよくあって、「疲れたー」が口癖になってしまうと本当に一日中疲れた気分になってなんだか本当に不幸だったりする。借り物の言葉で語っているうちに、自分の感情はそういうものなのだと思い込むことも、あるのかもしれない。それは、大人よりも子どもの方があるのかもしれない。

そういうわけであまりにも安易に「殺す」などという言葉を口にできる風潮があるとすれば、それ自体気掛かりなことだと思います。「ムカツク!」という表現はあまり好きになれないけれど、よく分からない感情をよく分からないまま表出する方が、「ぶっ殺す」などと心の中で思っているよりもはるかに健全なのかもしれません。

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2004年06月08日 00:47に投稿されたエントリのページです。

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