Lawrence Lessig, Free Culture (原文http://www.free-culture.cc/)

"Piracy"



翻訳:*nisshi.jp(http://www.nisshi.jp/)
訳についても原文と同様のライセンスに従う。
詳細はhttp://www.nisshi.jp/txt/lessig/


「海賊行為」

 創作物に対する法的規制があるところでは、いつも「海賊行為」との戦争があった。この「海賊行為」という概念のはっきりとした輪郭を描き出すことは難しいが、その意味する不正は容易に理解できる。マンスフィールド卿がイギリスで、著作権法の及ぶ範囲を楽譜にまで拡大した判決で書いているように、
 誰でも、演奏という方法で楽譜を使うことができる。しかし、だからといって、楽譜を複製して使うことによって著作者の利益を奪うことまで許されるものではない。

 現在も、私たちはまた「海賊行為」に対する「戦争」の真っただ中にいる。この戦争を引き起こしたのは、インターネットである。インターネットはコンテンツの効率的な流通を可能にする。インターネットが可能にする効率的な技術の例としては、ピア・ツー・ピア(P2P)ファイル共有がある。分散知能の手法によって、P2Pシステムはひと世代前には想像もできなかったような方法でコンテンツの簡単な流通を可能にしている。

 こうした効率的な方法は、従来の著作権の考え方を踏襲していない。ネットワークにとっては、共有されるのが著作権のあるコンテンツであるのか、そうではないコンテンツであるのかは関係がない。そこで、著作権のあるコンテンツが大量に共有されることとなった。このことが著作権の所有たちに自らの「利益が奪われる」のではないかとの不安を引き起こし、戦争を激化させたのである。

 この戦争の戦士たちは自らの「所有権」を「海賊行為」から守るために、裁判所や、立法府や、そして次第に技術に頼るようになった。この戦士たちの警告によれば、「所有権」は「フリー」であるべきだと信じる世代が育ちつつあるという。彼らは言う。タトゥーやボディー・ピアスだなんてどうでもいい――もっと大変なことなんだ。子どもたちが泥棒になっていく!

 もちろん、「海賊行為」は間違っており、海賊行為を行っている人たちは処罰されるべきである、という点について疑問を挟む余地はない。ただ、処刑人を呼んでくる前に、もう少しこの「海賊行為」という概念の内容については考えてみるべきである。というのも、どう考えても間違っているような異常な考え方を核心に持つものとして用いられることが、最近多くなってきているからである。

 それは、こんな感じの考え方である:
 創作物には価値がある。だから、私が他人の創作物を使ったり、取ったり、それ元に何かを創り上げるときには、私はその他人から何か価値のあるものを取っていることになる。そして、他人から何か価値のあるものを取るときには、許可を得なくてはならないはずだ。他人から許可を得ずに何か価値のあるものを取ることは間違っている。それは海賊行為の一種である。
 この見方は、現在なされている様々な議論の根深いところに潜んでいる。これはニューヨーク大学の法学者ロシェル・ドレフュス教授が、著作物の「価値あれば権利」理論として批判しているものである――もし価値があるならば、その価値に対して誰かが権利を持っているに違いない、という考え方である。作曲者の著作権者団体であるASCAPがガールスカウトに対して、キャンプファイヤーで歌う歌の対価を払っていないとの訴えを起こしたときも、その前提にあったのはこうした考え方だった。「価値」(歌)が存在するのだから、「権利」があったに違いない――たとえガールスカウトに対してであっても。

 この考え方は、著作権の仕組みについてありうる一つの考え方ではある。さらにいえば、著作権を保護法制の制度設計の一つの選択肢ですらあるかもしれない。しかし、著作権の「価値あれば権利」理論が、現実にアメリカの著作権の理論であったことはない。こうした考え方が私たちの法の中に確立されたことは、一度もないのである。

 私たちの法の伝統はそうしたものではなかった。そうしたものではなく、知的財産権を道具とする伝統だった。知的財産権という道具は、豊かな創作性を持つ社会の基盤を成すものだが、それはあくまでも創作性という価値に従属する。現在の議論では、これがちょうど逆さまになってしまっている。私たちは道具を保護するのにあまりにも熱心になりすぎて、この道具がもともと奉仕していたはずの価値を見失いつつある。

 この混乱の根源は、法が次の二つを区別しなくなってしまったことにある――誰かの著作物を再発行するということと、誰かの著作物を元に何かを創り上げることや著作物を変形させること、の間の区別である。著作権法が誕生した当初、法は前者の場面しか規制していなかった。それに対して、現在の著作権法は両方を規制している。

 インターネットの技術が登場する前には、この二つを区別しないことはそれほど問題ではなかった。出版するのには大変お金がかかり、それは出版の大多数が商業的なものであることを意味した。商業的な主体は、法の制約という負担を課されてもそれに耐えられた――それが著作権法のように入り組んだ複雑な法制度であっても。それはビジネスをするために必要なコストがまた一つ増える、ということに過ぎなかったのである。

 しかし、インターネットの登場で、法の及ぶ範囲についてのこの事実上の限界は取り除かれてしまった。法は商業的なクリエイターだけでなく、ありとあらゆる人の創作活動を規制するようになったのである。そして、このことも著作権法が単に「複製」の場面だけ規制するものにとどまっていればそれほど問題にならなかったのかもしれないが、それだけではなく今のように幅広い場面を規制するようになっていたので、法の及ぶ範囲の拡大は大きな問題となったのである。法の課すこの負担は、もともと法が制約を課すことによって得ようとしていた利益をはるかにしのぐものになってしまった―― 非商業的な創作活動への影響だけをとってもそうであるし、商業的創作活動への影響をも考えればなおさらである。したがって、以下の各章でよりはっきりと見えてくることになることだが、法の役割は次第に創作活動を保護することから、特定の業界を競争から守ることへと、どんどんと変わっていってしまった。デジタル技術が商業的・非商業的を問わず、驚異的なまでの幅広い創作性を解き放つ可能性をもたらしているせっかくのこの時期に、法はばかげているほど複雑で曖昧なルールと、びっくりするほど厳しい罰則の威嚇をもって創作活動に対して大きな負担を課しているのである。私たちは、リチャード・フロリダが書いているように、「クリエイティブな階層の興隆」を目撃しつつあるのかも知れない。なのに、私たちはそれと同時にこのクリエイティブな階層に対する異常な規制の増加も目撃しつつあるのである。これは残念なことだ。

 こうした負担は、私たちの伝統からみれば、まったくおかしな話なのである。そこで、まず私たちの伝統がそもそもどういうものであったのかをもう少し詳しく見ていき、「海賊行為」とのラベルを貼られている行動についての現在の戦いを、私たちの伝統の中に適切に位置付けることからはじめよう。


 
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